1905年(明治38年)にポーツマス講和条約を結んだ後、一時的に敵対関係にあった日本とロシアは協調路線へと舵を切りました。この時代、両国は韓国や満州、モンゴルなどの地域で権益を分け合い、「例外的な友好の時代」と呼ばれる関係が形成されました。これまで日露関係史として広く知られていますが、岡部克哉氏の著書『協調外交と勢力圏』は、「友好」と「敵対」によって国家間の関係を一次元的に捉えるべきではないという視点から、その歴史を再検討します。著者によれば、「平和は人為的に創られるもの」であり、「利害の対立を調整する日々の努力こそが外交なのだ」と述べています。
この視点から、1907年から1912年までの三次にわたる日露協約とその前後の時代を詳細に追った本書は、読者に新しい発見を提供します。未公開文書を基にしたロシア側の視点からの手堅い叙述や、「セキュリティ・ジレンマ」という国際関係論の用語が効果的に使われ、大部ながらも読みやすい構成となっています。
教科書で親しまれてきた日露関係のイメージを覆すことから始まるこの本は、実際に多くの日露双方の関係者がポーツマス講和条約を一時的な停戦協定と見なしていた事実に注目します。彼らにとって、両国は依然として仮想敵国であり続けており、再び戦争を選択するよりも自制し妥協点を探る方が望ましいと考えられました。
日露の立場には多くの相違がありました。例えば、辛亥革命時における北満州への関心では、ロシアは清の分裂を支持していた一方で、中国本土へ進出しようとした日本はその領土的一体性の保持を望んでいました。しかし、このような相違があるからこそ、両国は紛争回避のために工夫を重ねてきました。第三次日露協約では、ロシアが内モンゴル東部で日本が勢力圏を持つことを認めるなど、数回の協約には「紛争管理の枠組み」設定への狙いが見え隠れしています。
この時代背景として重要なのは、帝国主義の時代であったことです。西側ではオスマン帝国を脅かし、東側では清朝に影響力を及ぼす勢力圏を拡大していました。本書はまた、1908年のオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合と1910年の日本による韓国併合が対をなす出来事であったことも指摘しています。このように、地球規模の視点から見た歴史解釈が随所に散りばめられており、日露関係を新たな光で照らし出しているのです。
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